駄言は洒落にもならない。

話題の本、『#駄言辞典』を読んだ。

旧いステレオタイプによって生まれたヒドイ発言を「駄言」と名付け、SNSで「こんなこと言われた」という人から募集した駄言のオンパレード(400超!)がそこにはあった。

例えば・・・、

「女性なのに仕事ができるね」
「涙は女の武器だよな」
「男だから多少厳しくしても大丈夫だろ」
「男なんだから黙って働けよ」
「ママなのに育休取らないの ? 」
「男なのに育休取るの ? 」
「俺より稼げるようになったら育児手伝ってやるよ」…
「男としてチャレンジしたい」

などなど。こりゃ相当ヤバイですね。いや「え?それダメなの?」っていま思った人も。

こうして本になり世間に晒されることで、投稿した人や同様の経験がある人は溜飲が下がる思いだろう。時代の変化とともに駄言は減ってきていると思うが、FJの分野でいえば「パタハラ受けた人は4人に一人」というデータもあって、現実にはまだ巷ではいろいろあることは分かっている。今日も残念ながらあちこちの職場や家庭、SNS上で飛び交っているのだろうから、こうしたマトメ本が批判だけでなく再発の警鐘を鳴らすことは大事だ。

「駄言は言った本人に悪気はなく、むしろその場の空気を明るくするためだったり、相手の為によかれと思っていった事が駄言になってしまうことが多い」と、本書の「まえがき」にもあるが、私もそんな気がする。公的な場での相手を打ちのめすような過激な言葉や誹謗中傷は「暴力」と同じでアウトだが、知人間での駄言は単に価値観の押し付けなんだけど、「助言のつもりで」というようなニュアンスもあり、受ける側もいちいち反論せずスルーしちゃうところがある。

最近ではその線引き(肌感覚)が変わり、冗談がジョーダンとして受け止められなくなり、言った方はそんなつもりはなくても相手が怒り訴えたり、SNSに書き込んだりするケースが出てきた。イエローカードの基準が変わり、何気なく発した駄言のせいで「一発退場」のレッドカードになったようなものだ。

つまりこの本は、「悪気はなくても、こんな風なことを面と向かって言ったりネットに書き込むと、訴えられたりしますよ。あなた大丈夫ですか?」と親切にも私たちに教えてくれているのだ。ありがたい本だ。一家に1冊、プラス一企業に3冊だな。

私もパパセミナーやイクボスセミナーで「NGワード」を教えているが、例えばパパがママに「家事手伝おうか?」とか「家族サービス」を使ったらまあアウトだ。また上司が男性部下に「育休?お前が産むのか?」とか、課長が子どもが生まれた女性スタッフに「お母さんになったんだからこの仕事は無理だよね」なんて言ったら、その人は忽ち辞めちゃうかモチベーションはガタ減りよ、と教える。と同時になんでそういう発言が飛び出ちゃうのかについてもロジカルに説明する。ただ「使っちゃダメですよ」だけだと「その言葉」は言わなくなるけど、根本から理解してないから似通った駄言をまた吐いてしまうのだ。

駄言やハラスメントの根っこにあるのはやはり「刷り込まれたジェンダー意識による無意識の偏見」や「主従関係の中にある命令と服従の支配構造」だろう。加えてこの本の識者が言うように「駄言がうまれる理由」として、

  • 歴史的背景
  • 社会構造
  • 勉強、想像力、共感の不足
  • ミスコミュニケーション
  • 公私混同

がある。つまり、個人のOS(意識)がなかなかヴァージョンUPしないのは、もっと複雑で一朝一夕ではいかない原因があるということだ。私は出口治明さんの考察、「駄言やジェンダーギャップがなくならないのは不勉強。本を読まないからだ」に強く共感する。Reading&Thinking! 元・書店員としてもね。

駄言が跋扈する社会は何かと生きにくい。言われた側だけでなく、言う側も自分の首を絞めることにならないか。

分断社会に陥らないようお互いが多様性を認め合い、相互承認の上に誰しもが決定・生存の自由が担保できる社会を築いていくためには、どうすればいいか?

自戒も込めて本人(自分)が学び気をつけることが第一だが、トラブルを糧にして「より良いフェアな関係」をクリエイトしていけるような場や機会をつくることが肝心だ。皆が社会の最適化を目指す中で、当事者だけでなくその周囲にも気づきを広めていくことが肝心だ。で、社会教育はそういうスキルを持つ人を増やしていくことが必要なんじゃないだろうか。その点でもこの本は、格好の教科書になると思う。

駄言は残念ながらこれからも新ジャンルの中で生まれるだろうから急には無くならないけれど、「イクメン」という言葉がそろそろ死語になるのと同じように、あらゆる駄言に対して、叩くのではなく「それ、カッコわるいね」という価値観を拡げることで空気を変え、この本が絶版となるようなハッピーな展開に持って行きたいね。